前の職場は、ここだけの話ですが…正直言うと必ずしも良い労働環境だとは思いませんでした。私も退職の際に周りにはご迷惑をかけた身でもあるので、批判や陰口と言った詳細は控えますが、逆境に身を置いたからこそ今の職場環境が創れる事に今では心から感謝をしています。その中で、唯一今でも心に残っている前の上司の言葉があります。
「困難事例という利用者は存在しない。利用者を困難事例と決めつけるのは私たち支援者であって利用者本人ではない」
その言葉に共感できたからこそ頑張って来れたのだと思います。
世田谷区のホームページでは「「困難事例」という表現は、介護支援専門員向け、あるいは他のヒューマンサービス職向けの書籍等の中でよく用いられている。 このような場面で使われる「困難事例」は、厳格に「介護支援専門員が(必ず)困難を感じる事例」という意味ではなく、「介護支援専門員が困難を感じることが多い事例」という意味で用いられている」と言う、吉江悟氏(特定非営利活動法人東京都介護支援専門員研究協議会理事)の解釈が一番わかりやすかった。
あくまでも「困難事例」と言う認識は介護支援専門員側から見た相対的な概念であり「困難事例」と言う言葉を使う際には、前記の認識が含まれている事を理解したほうが良いと氏の論文では警告している。
例えば、「いわゆる困難事例(と言う表現を使います)」と呼ばれるケースには「支援を拒否する利用者」と言う場面に遭遇する介護支援専門員も多い。困っている状況に置かれている利用者に対して、介入する介護支援専門員側としては「サービスを介入することによって状況を少しでも良くしたい」と言う想いから、拒否される(状況が動かない)ことに「困難を感じる」と認識してしまう。そこで補助線を引いて考えてみたい。
日本国憲法第13条では「日本国憲法 第13条(にほんこくけんぽう だい13じょう)は、日本国憲法の第3章にある条文で、個人の尊重(尊厳)、幸福追求権及び公共の福祉について規定し、第11条・第12条とともに、人権保障の基本原則を定めている」と、あるように幸福追求権について書かれている。ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」では「個人の幸福への関心を最大限に持つのは本人である。すなわち他の人から見て賢明であるとか正しいからと言って、何かを強制する事は正当ではありえない。生命や身体など自分の所有に帰するものは、他者への危害を引き起こさない限りで、たとえその決定の内容が理性的に見て愚行と見なされようとも、対応能力をもつ成人の自己決定に委ねられるべきである、とする主張である」と、言ってもなんのことだか解らない!って思うが…乱暴にいうと「幸福追求権って言い換えると愚行権とも言える。他人に迷惑をかけなければ他人から見て愚かなことをしていると思っても、それは個人の権利だ!」ってことになる。
そういった補助線を入れて利用者を見てみると「いくら困難事例だと(介護支援専門員が)見えても、周りの環境や本人の置かれている状況が必ずしも良い状況(と言う介護支援専門員の認識)では無くても、熟慮の末に利用者自身の身体や周りに直ちに危害が及ばないと判断できるなら見守る(何もしない)という判断もアリ」ではないか?と私は考える。
と言う事を、過去に社会福祉士のスクーリング授業で意見をしたら「あなたの考えは間違っている。よろしくない環境であるなら支援者は介入すべきだ」と、一刀両断されてしまったので必ずしも正解な解答ではないことも記しておきます。あなたにとって困難事例とはなんだろうか?と、一度考えてみるのも勉強になると思います。
引用元(世田谷区ホームページ)より
www.city.setagaya.lg.jp/mokuji/fukushi/001/001/006/d00029863_d/fil/29863_5